昭和42年11月2日 朝の御理解
願いが成就するということは、願いが通じる事でございます。自分の祈り、又は願いが通じる。「至誠天に通ずる」と言うようなことを申しますね。真心は必ずその天に通うと言うわけですね。願いと言うものが、神様に通ずる。通ずると言うことを、ところが通じておるのか、通じていないのか一向分からん。お参りはしておるけれども、神様に通じておるかどうか分からない。その証拠におかげがみえない。そこで私共がどうして通じんのだろうか、大抵真心も、又一生懸命にもなっとるようにあるけれども、どうして自分の此の思いが神様へ通じないのであろうかと。そこから信心が深いものになってくる。どうして通じないだろうか、これは何かが障害になるもの邪魔になるものがあって通わないのであろう。例えば下水なら下水の水が溢れて道にいっぱい流れておる。そんなはずじゃないのである。土管がいけてある。にもかかわらず、その道に汚水が溢れておる。どうしてじゃろうか。どうしてじゃろうかと言わずに、矢張りそこの土管を除いて見るということになってきた時に、中に竹なら竹を通してみた時に、成る程中にこげんいっぱい詰まっとるもんじゃから、通じないはずである。とそれが取り除かれるところにどうっと通じていくように、ね、どうしておかげが受けられんのであろう。どうして通じらんのであろう。そこに私は思いをするときにいよいよ自分の心の上に思いをおかなければ出来んのでございます。
成る程これでは通じない。
福岡の吉木辰次郎先生ですは、三代目の先生、先日亡くなられましたが、あちらのお説教を頂いたときに、そんなことを頂いたことがございます。あちらは御養子でございますから、矢っ張りいろいろと人間関係の上にも大変矢張り悩み苦しみも多かったらしい。それで非常にそのなんというか、負けん気が強い元気な先生でございました。それでもどうしてもひとつの願いを立てられて、その願いが成就しないことから、初代奥城が丁度今はあちらの境内にございますけれども、つい此の頃までなんともうしますかは、姪の浜のチョイと手前の方からこう登った山手の小さい山の頂上にそのお墓ですね、奥城がございました。大変そのあらたかな、霊験があると言うのでその初代親先生の奥城には、もう信心のないものでも、あの近傍のものが願いを立てれば、成就すると言うので非常にお参り多いお墓でございます。
そこへ晩の御祈念を終わられてから毎晩歩いてお参りになった。矢っ張り一里ちょっとでございますでしょう。往復二里なんぼの道を降っても照ってもその毎晩毎晩御祈念が済まわれたら、お参りになった。百ヵ日お参りされた時にはもう途中で眠うして眠うしてたまらんじゃった。そしてどこをどげんして歩いとるやらですね、もうそれこそたんぼん中に入ってしもうた。山に登らんなたんぼん中に入っとった。それから気を取り直して、又その道を探してその山に登られた。そしてその私も随分夜中にその奥城に、福岡におる時分にお参りもしましたし、随分お参りを致しましたものでございますがね、非常に御祈念のしやすい奥城でございます。前にこう地べたに座られるようになっとる。さぁそこで一生懸命座ってからその初代の親先生の御霊様にお願いをなされておられたらですね、神様からそのお伝えがあった。それはね、どこから響いてくるか分からんけれども、いわゆる吉木先生の心耳ですね。心の耳に響いて来た事はですね、「一心天地の芯に通ずるぞ」というお言葉であった。一心天地の芯ですね。天地の芯に通ずるぞとおっしゃった。そして自分が座っておられるですね、その地べたにこう座っておられるのに、何か根が生えたような心持ちがしたと云うておられますですね。天地の芯に通うた。百ヵ日間一生懸命そのおすがりをなさった。その一生懸命の熱意がです、天地を動かした。天地の芯に通ずるぞと言うお言葉を頂かれた、ということでございます。
ですからここに天地の芯に通ずる。天地に通ずると、神様に通うと言うこと。それは成就するということになるわけです。そういう天地の芯に通ずると言うことがです、そういうひとつの熱意と言うものが天地に通うと言うことが云える訳ですね。熱意の、確かに私共がひとつの願いごとをかけてですね、そりゃ確かにそう言うことがありますね、十日なら十日、一週間なら一週間、先生の場合は百日なら百ヵ日間のいわばそうした行を続けておられる。もう最後になってです、もう本当に行かれんごたることあるんですよ。そういう障害があるんです、そしてまぁその日も眠うして眠してもうとにかく、どこをどう歩いとるじゃら分からんようなそして山に登ったらにゃなからんのに、たんぼん中にあったというようにです、その道を探されるのに、往生されたという、夜中の事ですから、まるきり狐につままれたようなもの、そこを矢張りやり抜き貫きとうしておられる。そこに吉木辰次郎の願いを神様が聞いたぞ、とこう天地の芯に通ずるぞとこう仰った。もうそれこそ自分の座っておるそこからですね、もう天地に根が生えたような心持ちがしたと言うことを、その自分の御修行の様子をですね、話して聞かせて下さった事がございます。ですからその熱意と言うものが神を動かすと言うことも云えますですね。百匹の蛍を袋に入れましても、それはぼんやりとした光にはなりましても、ま、字が読める程度にはなりましても、この紙一枚が貫けないでしょう。ぼやーっとなんとはなしに有り難いからと云うて、なら十年、二十年信心を続けておるからと云うてです、先日から私がもうしますようにあただ信心の稽古をさして頂いて何かと、さぁ雨だ、風だと言うような時が必ず有るんだと、そう言うような雨やら風やらを本気で元気な心で貫き通す。そこを合掌して受けていく。ここを通らなければ同じとこをいつも、いわばグルグルしとらんならんですよというてある教会にお参りさして頂いて、そこの御ヒレイの模様をみて、私それを実感して帰って皆さんにお話した事がございました。五十年間信心が続いておると言うだけじゃいけないと言うこと。貫き通すものがなからなければ、それも貫き通しにくいごたるところを貫かせて頂くと言うその熱意が、どうでも必要であると言うこと。百匹の蛍を千匹の蛍を持ってきてもです、なんとはなしにぼんやり明るくはなるけれども、それでは紙一枚の裏表が貫くことが出来ないと言うこと。それは一本の線香でありましてもです、それに火がついておる、さわれば熱いと言うようなものでなからにゃいかんと言うこと。線香の前にちょっとこう当てると熱っというでしょうが、一枚の紙に当ててご覧なさい。その紙を貫くことができるでしょうが、それはですね、ほんの線香一本のような、例えば信心であってもそれに火がついておる。そこにです、一枚の紙をいわば貫くようにです、天地を貫くということにはそうした熱意がどうでも必要であると言うことが分かります。
ひとつの事が成就さしてもらう為には、この事だけはどうでもこうでもという熱意なんです、まぁ例えて言うならば、あることの願いの為に、金光様の御信心にはそれはあんまりよしとされてはおりませんけれども、なら絶ちものをする、タバコならタバコを絶ちます。そりゃ何日かは辛抱して飲まじゃったばってんから、もうものの五日もするともうそのタバコに手が出ると言うような弱い心では通じない事が分かります。朝参りしますと云うて、二、三日だんなその続けておるけれども、もう一週間と続かん。そう言うことで神様へ通ずるはずがない。通ずるということには矢張り、自分自身の心が本当に神様に向かう。出来んことをすると言うのじゃない。その気になりゃ出来るということなんだ。その気になりゃ出来る。そこに神様がこの腹をみて下さるじゃないでしょうかね。そこへですね、私は貫かせてもらうひとつの熱意というものが必要であると言うことでございます。
同時に今度はまぁいろいろあると思うんですけれども、先生もう子供が親の言うことを聞かんで困ります。もういくら云うて聞かせたっちゃ分かりません。先生今度子供が参ってきたなら、先生からよう云うて聞かせて下さい。如何に私が言うち聞かせたところで分かるはずがない。親が云うて聞かんもんを私が言うて聞くもんか、本当に子供に自分の言うことを聞かせたいならばです、例えば親が子供を不幸せにと思う親は無いようにです、本当に親の思いが分かったら子供はね、親の言うことをきかなきゃおれんのですよ。いわゆる親の思いが子供に通じていないのですよ。というてわたしゃあんたんことばこげん思っとるとばい。こげん一生懸命考えとるよ。親の思いも分からんで、というて分からんものを如何にいうたところでですね、言うことを聞かないものは仕方あるまいが、通じない。そこで自分の子供にいよいよ云うて聞かせて分からして、それを通じようとそれを如何に云うてもです、誰々さんに云うてもらって通じるものじゃない。そん時は成る程というようなもっともらしい顔して聞いとっても、決して心から通じておるのじゃない。そこで私はその方に言うのです。本当に子供に親の気持ちを分かってもらいたいならね、どうぞ私に神様親神様の思いを私に分からせてください、そして子供には私の思いを分からして下さいということにならなきゃいかんのですよ。ね、自分の思いだけ子供に分からせようとしておる。自分は分かろうといっちょんつとめとらん。
そこで私はあなたも思いを分からしてもらうことに、一生懸命なりますと、親神様の思いを私に分からして下さい。子供には私の思いを分からして下さいと言うところに神様、親、子供と通じる道が開けてくるのです。それを神様の方は向かず子供の方ばっかり向いて、どうして通じんのか、どうして分からんか、俺はお前の事をこんなに思うとるとにと、如何にいうたところで通じるはずはない。私には、神様はどうも分からして下さい。そしてその思いに添わして下さい。子供にはどうぞ私の思いを分からして下さい。親や子供のことを切実に思っとらんはずはないから、その思いが子供に分かったときにです、初めてはぁ親が私の事をこの様に迄思うておってくれるんだ。考えておってくれるんだと言うところに、子供がそれを聞くことになってくるのですよね。
これは親子関係の事だけじゃありません。夫婦関係の事だけじゃありません。あらゆる人間関係の上において、同じ事が云えます。いや人間関係だけの事ではありません。どうしても願うても、願うてもおかげにならない、通じないという問題のすべてに通ずる事なのです。そこで例えば本当に教えが分からしてもらわなければならないと言うことはです。親神様の思いが分からんならんということである。
親神様の思いにいよいよ添い奉らして頂こうとする願い、しかもその願いにはです、いわゆる熱意がなから無ければならない。ということです。毎日百日間ただ参っとると云うて、ぶんべんだらりと参っただけじゃつまらん。蛍のような信心じゃつまらん。一本の線香に火のついたように、それは一本の線香のようなささやかな信心ではあってもです、そこにはさわれば熱っと言うくらいなその熱意というものがそこにあって初めて天地を、いわば貫くようなおかげになると言うことが分かります。通ずると言うことは成就すると言うこと。真で成就せんことなし。成就せんときには氏子の真心が欠けたときと悟れと、四神様が仰っておられます。その真、真心の追求をさして頂いて、そして天地の親神様のいよいよ思いを分からして頂く事に、精進さしてもろうて、しかもそれに熱っと言うような熱意がこめられて、初めて私は通ずるものだと、下水の水でもどうしてこげん道に溢れ出るじゃろかと言うておるだけじゃいかん。ちった汚かったちゃ手をつっこんでから、中んごもくぞでも出してみると成る程、こげんつかえとるもんじゃけんというて後からごうーっとその通じて流れるようにです。本当に良くこれはもうします事ですけれども、分かるとこが分かりゃおかげになるのが、これはもう御道の信奉者のみんなが言うことでございます。お話を聞かせてもうらて分かるところが分かりゃちゃんとおかげになるがの、勿論分かるところが分かりゃ、はぁそうだと。だからその分かっただけじゃいかん。分かったことは勿論行の上にも現されると言うことに通じるですけれど。
あの大連の教会の松山という先生がおられますね、大変お徳の高い先生。終戦と同時に岡山に引き揚げてこられた。岡山に引き揚げてこられた時には、もう既に教会が建っておったと言うことですから、矢っ張りお徳を受けておられた。その先生のところの総代さんにですね、もう実に一家中をあげて信心するですね、もう本当にそのまじめな良い信心をするんですけれども、矢張り大連である商売をしておった。あれをし、これをし、何しても成就しない訳です。だからもう松山先生もですね、この氏子がおかげ頂かんはずはなかがと思いなさる程に良い信心をする。それである御本部参拝をされたときに、まだ三代金光様御在世の頃ですから、三代金光様にその総代のことをお伺いになった。そのお願いなったんです。ところがどういう風に信心させましたら、その氏子がおかげ頂きましょうかとお願いさして頂いたときに、金光様がね、こうすればおかげになると分かっておりながら、こうせんからおかげになりませんと仰ったそうです。こうすりゃおかげになると、ここばいっちょ改まりさえすりゃおかげ頂くことは分かっとるばってん、改まらんからおかげになりません。と仰ったそうです。
もうそれこそ鶴の一声ですよね、ハァとそれこそ平伏して下がられ、その事をそのまま総代さんに通じられた。そしたらその総代さんがほんにそうどころじゃございますまいと、云うてですね、ある一家中で改まらなければならないことを、そのやっぱ思うとるとですよね、永年信心しよるけんここば改まらんことは分かっとるとですよ。こげなこつでおかげ頂くなら、頂く方がおかしかちいうくらいなものがあるとですよ。それをその改まれた。もうそれこそ途端だったそうですね、その店がその日の出の勢いで繁盛のおかげを頂かれたと言うお話がございます。どうしても通じなかったんです、それがざーっとその堰を切ったように通じるようになった。だからその通じると言うことは願いが成就すると言うこと。
私共の願いが神に通じる、それには只今私がもうしましたようないろいろな通じ方というのがある。親の思い、神様の思いが分からして頂いて、その神様の思いに添わして頂くようになったら、子供が私の思いを分かるようになって、親孝行してくれるようになったと言うことにもなるわけですね、どうにも成就しなかったその問題が本当に成就のおかげを頂いた。そこにです、私共がひとつ本気で思わして頂いて天地に通ずる、神様に通ずるおかげを頂いて成就する。成就のおかげにならなければならんと思いますですね。 どうぞ